揺らぐ前提の時代に、日独関係の新たな意味を考える
横浜日独協会会長 成川 哲夫(2026年4月)
(1) 変わりゆく世界の前提
世界は今、企業経営や国家運営の前提そのものが大きく変わる局面に入っている。自由貿易の拡大、安価で安定したエネルギー供給、米国による安全保障上の下支え、そして経済合理性を追求すれば国際秩序も概ね安定するという戦後の枠組みは、 もはや自明のものではない。日本企業もドイツ企業も、いまやこの変化を正面から受け止めざるを得ない段階に来ている。 激動の時代とはよく言われるが、今日の変化は単なる景気循環や一時的な政策変更ではなく、より深い構造変化として認識すべきものであろう。
(2) 柳元大使の講演が示したもの
先日、私の推薦により、柳秀直元駐ドイツ大使に経済同友会でご講演いただく機会があった。講演では、メルツ政権下のドイツが直面する現実が、外交・安全保障、経済、社会政策の各側面から率直に示された。ロシアの脅威への対応、トランプ政権下の米国との向き合い方、中国との経済関係の再調整、低成長の長期化、さらには年金や市民手当改革まで、いずれもドイツの従来の安定を支えてきた前提を問い直す内容であった。 講演を通じて改めて感じたのは、ドイツはいま単なる景気停滞の中にあるのではなく、国家としての経済社会モデルそのものの見直しを迫られているということである。
(3) ドイツ型成長モデルの揺らぎ
その中心にあるのは、ドイツ型成長モデルの揺らぎである。すなわち、ロシアからの安価なエネルギー、中国市場への輸出拡大、そして安全保障面では米国への依存という組み合わせである。このモデルは長年にわたりドイツ産業の競争力を支えてきた。
しかしロシアのウクライナ侵攻後、エネルギーコストの上昇が製造業の収益構造を圧迫し、中国との関係も従来のような単純な成長市場依存では済まなくなった。加えて、米国の通商政策が一段と自国中心色を強めれば、対米輸出に依存する企業にとっても不確実性は高まる。
さらに労働人口の減少、技能人材不足、社会保障負担の増大がこれに重なる。これは一時的な逆風ではなく、経営環境の構造変化として見るべき問題である。
(4) 現実対応へと向かうドイツ
注目すべきは、こうした厳しい現実に対して、ドイツが従来の理念や制度を固定的に守るのではなく、かなり現実的な修正に入り始めていることである。象徴的なのは財政運営と安全保障政策である。国防費拡大やインフラ投資の必要性を踏まえ、 これまで厳格に維持してきた債務ブレーキにも例外措置が講じられつつある。また、防衛産業に対する見方も大きく変わった。かつては政治的にも社会的にも扱いが難しい分野と見られていたが、現在では安全保障上の必要性のみならず、 雇用創出や技術革新を担う産業として再評価されている。自動車産業など従来の基幹産業が構造調整を迫られる中で、新たな産業分野へのシフトが進みつつあるという点は、経営者として見逃せない。
(5) 日本にとっても他人事ではない
ここから日本企業が学ぶべき点は多い。日本もまた、資源に乏しく、輸出産業を柱とし、人口減少と高齢化に直面し、米国との連携を安全保障の基軸としてきた国である。したがって、ドイツに生じている変化は決して他人事ではない。エネルギー、半導体、重要鉱物、物流、サイバー、防衛装備、AI・デジタル基盤など、 多くの分野で経済と安全保障を切り離して考えることはもはやできない。 企業経営においても、コスト、収益、資本効率だけでなく、供給網の耐久性、技術の自律性、地政学リスクへの耐性、人材確保力を含めて総合的に競争力を見なければならない時代に入っているのである。
(6) 日独協力の実務的・戦略的意義
その意味で、日独両国の経営者には共通の課題がある。第一に、これまでの成功体験に依拠した経営モデルを必要に応じて修正することである。 第二に、経済安全保障を単なる政府の政策課題としてではなく、自社の経営課題として取り込むことである。第三に、産業政策や通商政策の変化を受け身で待つのではなく、国際連携の中で自ら活路を見いだしていくことである。日独は、ともに高い技術力と厚い産業集積を持つ国であり、脱炭素、先端技術、サプライチェーン再構築、 インフラ、防衛関連技術などで協力の余地は小さくない。競争するだけでなく、共創できる領域を戦略的に見定めることが重要である。
(7) 交流の蓄積の上に未来を築く
こう考えると、これからの日独関係は、文化交流や親善の枠にとどまらず、より実務的で戦略的な重みを持つことになる。もちろん、長年にわたり諸先輩が築いてこられた交流の蓄積は、今後も大切に守るべき基盤である。 その価値はいささかも揺らがない。その上で、企業人、研究者、学生、若い世代を巻き込みながら、次の時代にふさわしい日独交流を育てていく必要がある。 相手国を知ることは、単なる教養ではなく、経営環境を読み解き、自国の進路を考えるうえでの重要な知的資産になっているからである。
(8) 未来志向の日独交流へ
激動の時代であるからこそ、日本とドイツのように共通の課題を抱える国同士が、率直に経験を持ち寄り、学び合う意義は大きい。 日独交流は過去を懐かしむためだけのものではない。むしろ、先の見えにくい時代において、企業と社会の進むべき方向を考えるための、未来志向の対話の基盤である。その意味を改めて確認しつつ、私たちもまた、次の時代への橋を着実に架けていきたい。 それこそが、いま日独関係に携わる者に課せられた静かではあるが重い責務であると考える。
